礼拝を「休む」
先月から今月にかけて、私は礼拝も集会も、ほとんど休んでいる。
「休む」と言うからには、出席するのが当たり前である。
クリスチャンなのだから、礼拝は生活習慣の1つであり、それは喜びだ。
しかも、私には教会内の立場や役割までが与えられており、生活の中で最も重要なことである。
日曜日の朝、朝食をとり、身支度を整え、革靴を履き、教会へ。
教会で出会う全員に、にこやかに挨拶をして、時間通りにすべての礼拝、集会に出席する。
すべてが滞りなく終わった後に、なんだか話足らなそうな人々が近づいてくる。
なるべく落ち着いて、優しくうなづきながら、話を聞く。
お祈りしていますね、と言って、ほどほどに話を終わりにする。
必要があれば、牧師にこっそり伝える。
私が教会員なら、私のような立場の人には、そうしてもらいたいと思う。
一緒に礼拝を守ってほしい。
一緒に悩みを分かち合って、祈ってほしい。
それが私の喜びです、と言えたら、どんなに良いだろう。
今、礼拝も集会も休み続けて、私は罪悪感でいっぱいだ。
教会には優しい人達ばかりで、せっかく色々な事に慣れてきたのに。
優しいからこそ、あれこれ声をかけてくれる。
慣れてきたからこそ、あれこれ色んな意見が聞こえる。
私は疲れるばかりで、教会に行くのがとても辛い。
マタイによる福音書/ 11章 28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
それは本当ですか?と、問いたくなる。
けれど、こんな私でも、こうやってあれこれ吐露した後に、家で一人で聖書を開いている。
今までの人生の中で、そんなことはした事がない。
不思議だ。
いつの間にか、少しだけ、クリスチャンになっていた。