近づいたり、離れたり。
教会と、社会。
神の家族と、血の繋がった家族。
伝道者の顔と、人間の顔。
暮らしの中で、私は行ったり来たりを繰り返している。
マタイによる福音書/ 04章 17節
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書/ 15章 8-9節
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』
神さまは、近づいてくる。
私は、離れていってしまう。
人間の価値観の中で、大人になってしまった。
心の軸が、もともとそちらに振れている。
口先だけで祈る日は、心がむなしい。
心が離れないように。
悔い改められるように。
ちゃんと教会に帰れますように。
喜びなさい
「ね、うれしいでしょう?」
「喜んでいないのは、あなただけだよ」
と人から言われて、喜べるだろうか。
自分の気持ちを抑えて、堪えて、我慢して…。
あの人が言うのだから喜ばなくちゃ、と自分の気持ちをコントロールするなんて、苦しすぎる。
4:フィリピの信徒への手紙/ 04章 04節
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
この言葉を初めて聞いた時、また喜ばなくちゃいけないの?と思った。
でも、もう一度改めて読む。
「主において」
人間の誰かに言われたのではなく、神さまに言われたら、と考えてみる。
6:フィリピの信徒への手紙/ 04章 06節
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
神さまがそう言うのなら。
私には、心の強さも、学びも足りないけれど、足りないことばかり数えるのを止めることができますように。
ここに居るのは、神さまの召しがあったから、と信じられますように。
人間のなかでは、なんの証明もなく、召命を明らかにされる場も無い。
しかし、静かに、常に問われ続けている。
あなたは、ここに居ることを神さまの召しだと信じるか?
私は、母が出来なかったことをしたい。
投げ出さず、逃げ出さず、でも、我慢せず。
どうか、自分の気持ちが伝わるように、相手によく伝わる言葉を与えてください。
礼拝を「休む」
先月から今月にかけて、私は礼拝も集会も、ほとんど休んでいる。
「休む」と言うからには、出席するのが当たり前である。
クリスチャンなのだから、礼拝は生活習慣の1つであり、それは喜びだ。
しかも、私には教会内の立場や役割までが与えられており、生活の中で最も重要なことである。
日曜日の朝、朝食をとり、身支度を整え、革靴を履き、教会へ。
教会で出会う全員に、にこやかに挨拶をして、時間通りにすべての礼拝、集会に出席する。
すべてが滞りなく終わった後に、なんだか話足らなそうな人々が近づいてくる。
なるべく落ち着いて、優しくうなづきながら、話を聞く。
お祈りしていますね、と言って、ほどほどに話を終わりにする。
必要があれば、牧師にこっそり伝える。
私が教会員なら、私のような立場の人には、そうしてもらいたいと思う。
一緒に礼拝を守ってほしい。
一緒に悩みを分かち合って、祈ってほしい。
それが私の喜びです、と言えたら、どんなに良いだろう。
今、礼拝も集会も休み続けて、私は罪悪感でいっぱいだ。
教会には優しい人達ばかりで、せっかく色々な事に慣れてきたのに。
優しいからこそ、あれこれ声をかけてくれる。
慣れてきたからこそ、あれこれ色んな意見が聞こえる。
私は疲れるばかりで、教会に行くのがとても辛い。
マタイによる福音書/ 11章 28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
それは本当ですか?と、問いたくなる。
けれど、こんな私でも、こうやってあれこれ吐露した後に、家で一人で聖書を開いている。
今までの人生の中で、そんなことはした事がない。
不思議だ。
いつの間にか、少しだけ、クリスチャンになっていた。
祈るときは
教会で驚いた事はたくさんあるけれど、その中の1つは「祈り」である。
私の知っている「祈り」は、
神社やお寺に行って、お賽銭を投げ込んで、手を叩いたり叩かなかったりして…という一連の動作のことを指す。
信心深いほうでは無かったので、心の中で願いごとを思い浮かべてみては「これ、本当に誰か聞いてる?叶ったりする?」と、いつも疑っていた。
おみくじを引いては、一喜一憂。
お守りを買ってみては、その有効期限を考えたりしていた。
教会の祈祷会は、お祈りのパレード。
教会員が一人ひとりずつ、長々と祈って、最後にみんなでアーメン、と言う。
まず、祈りを口に出すんだ、と驚いた。
そして、アーメン、と言うのも最初はとても恥ずかしかった。
せっかく祈るなら、なるべく整った言葉で、でも純粋そうな感じで祈りたい。
そう思っていたので、私はいつもお祈りをメモに書いて準備していた。
しかし、これはとても苦痛だ。
誰のために、何のために祈っているか、よくわからなくなる。
今、本当に祈りたいことがある。
それが叶えば、どんなに素晴らしいだろう、と思い浮かべている。
でも、祈祷会では祈れない。
マタイによる福音書/ 06章 06節
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる
マタイによる福音書/ 06章 08節b
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
祈りを聞いてくれる相手は、きちんと居る。
だから、部屋で静かに祈りたいと思う。
祈っているうちに、こんな事を願ってたんだ、と自分でもびっくりするような言葉が出てきたりする。
「私に必要なもの」が、願い通りであればいいな、と思う。
私は、どちらの羊?
洗礼を受けて、数年。
私はどちらの羊なのかと、わからなくなる時がある。
マタイによる福音書/ 18章 12節
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
私は、山に残る羊かしら。
それとも、迷い出た羊かしら。
すでに教会の中に居るのだから、私は山に残る羊だろう、と言える。
洗礼を受けていても、何度も迷ってしまうから、私は迷い出る羊だろう、とも言える。
そもそも、この聖書箇所は、こんな風に考えるべき文脈では無いかもしれない。
けれど、やっぱり思う。どちらかしら。
山に残しておいて大丈夫、と思わないでほしい。
教会の中に居ても、悲しみや苦しみがある。
改宗した人にしかわからない気持ち。
時間や気持ちを捧げることの難しさ。
自分から迷い出て、試してみたくなる。
神さまは、迷い出たことに気づいてくれるだろうか。
捜し出してくれるだろうか。
見つけた時、喜んでくれるだろうか。
怒らないでいてくれるだろうか。
どうだろう。
一歩だけ、群れを離れてみたりして。