私は、どちらの羊?
洗礼を受けて、数年。
私はどちらの羊なのかと、わからなくなる時がある。
マタイによる福音書/ 18章 12節
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
私は、山に残る羊かしら。
それとも、迷い出た羊かしら。
すでに教会の中に居るのだから、私は山に残る羊だろう、と言える。
洗礼を受けていても、何度も迷ってしまうから、私は迷い出る羊だろう、とも言える。
そもそも、この聖書箇所は、こんな風に考えるべき文脈では無いかもしれない。
けれど、やっぱり思う。どちらかしら。
山に残しておいて大丈夫、と思わないでほしい。
教会の中に居ても、悲しみや苦しみがある。
改宗した人にしかわからない気持ち。
時間や気持ちを捧げることの難しさ。
自分から迷い出て、試してみたくなる。
神さまは、迷い出たことに気づいてくれるだろうか。
捜し出してくれるだろうか。
見つけた時、喜んでくれるだろうか。
怒らないでいてくれるだろうか。
どうだろう。
一歩だけ、群れを離れてみたりして。