祈るときは
教会で驚いた事はたくさんあるけれど、その中の1つは「祈り」である。
私の知っている「祈り」は、
神社やお寺に行って、お賽銭を投げ込んで、手を叩いたり叩かなかったりして…という一連の動作のことを指す。
信心深いほうでは無かったので、心の中で願いごとを思い浮かべてみては「これ、本当に誰か聞いてる?叶ったりする?」と、いつも疑っていた。
おみくじを引いては、一喜一憂。
お守りを買ってみては、その有効期限を考えたりしていた。
教会の祈祷会は、お祈りのパレード。
教会員が一人ひとりずつ、長々と祈って、最後にみんなでアーメン、と言う。
まず、祈りを口に出すんだ、と驚いた。
そして、アーメン、と言うのも最初はとても恥ずかしかった。
せっかく祈るなら、なるべく整った言葉で、でも純粋そうな感じで祈りたい。
そう思っていたので、私はいつもお祈りをメモに書いて準備していた。
しかし、これはとても苦痛だ。
誰のために、何のために祈っているか、よくわからなくなる。
今、本当に祈りたいことがある。
それが叶えば、どんなに素晴らしいだろう、と思い浮かべている。
でも、祈祷会では祈れない。
マタイによる福音書/ 06章 06節
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる
マタイによる福音書/ 06章 08節b
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
祈りを聞いてくれる相手は、きちんと居る。
だから、部屋で静かに祈りたいと思う。
祈っているうちに、こんな事を願ってたんだ、と自分でもびっくりするような言葉が出てきたりする。
「私に必要なもの」が、願い通りであればいいな、と思う。